トルコへ戻ったクルド人難民申請者Hさんの話

今回、クルディスタンの旅の最初に、東京入管(東京出入国在留管理局)による退去強制令を受け入れて出国した、クルド人難民申請者のHさんとお会いすることとなった。在日20年にもなるHさんは、日本で積極的にトルコにおけるクルド人の状況について訴えてきた人である。その様子を伝える写真は以前からネット上にも出回っており「日本でトルコ国家分離主義活動を行っていた」という証拠となるため、トルコへ帰国すれば逮捕される危険性が懸念されていた。しかし、もちろん日本では難民認定はされず、特別在留許可も下りず、Hさんは東京オリンピックに向けてさらに厳しくなった入管の難民申請者への対応の煽りを受け、今年に入ると何度目かの仮放免の取り消しで収容されてしまった。そしてついに日本に絶望し、リスクを覚悟で退去強制令を受け入れ、妻と子どもたちを連れてトルコへと戻っていったのである。

日本で生まれ育った息子たち


HさんはG県のとある村の出身者だが、その村に帰ることはできず、都市に紛れて家族と暮らし始めていた。日本から戻ったことが知られれば、いろいろと面倒なことが起こると分かっていたからだ。きれいに片付けられた部屋には、奥さんと子どもたちがおり、そのうちのひとり、小学校3年生になる男の子は「ドラえもん」のビデオに観入っていた。Hさんは言う。
「トルコの学校に行きたがらないんだ。日本の小学校では友だちもたくさんいて、先生にも可愛がられていたのに。先生は『本当にこの子は優秀よ』と言ってくれていたんだけどね」
するとビデオを見ていた息子が「だって、トルコ語わかんないんだもん。友だちもいないし、つまんない。本当にこっちの学校には行きたくない」と、ちょっと早口の日本語でしゃべりながらこちらを向いた。そして「でも、ぼくはすぐに日本に戻るよ。だって友だちと約束したから」と、満面の笑みを浮かべた。しかし、父親のHさんがひとこと「日本にはもう戻れないんだよ」と言うと、男の子は急に真っ暗な表情になり「なんでだよ」とつぶやくと、俯いてしまった。
 この子は、日本で生まれ、日本で育ち、そして日本の子どもたちと同じように小学校に通っていたのだ。この子にとっては、急に外国の学校に入れられてしまったのと同じなのである。男の子は母親とはクルド語で話しをする。日本でHさんは、あえて息子にトルコ語を教えることはしてこなかった。トルコへ戻ることは考えていなかったのだから。

クルド人の美しい村


Hさんは、車で故郷の村の近くまで連れていってくれた。そこは本当に美しい場所で、なだらかな丘陵地帯が視界いっぱいに広がっていた。緑の畑やオリーブの木々が点々としていて、川が流れ、そのそばで牛飼いの女性が牛を追っている様子が遠くのほうに見えている。
「あそこが私の村。クルド人の村です。クルド人の村は、あそこと、あそこ…」5キロほど離れた場所に2つの村が見えた。その2つの村の外側を、10~20キロほど離れてぐるりと囲むようにしていくつかの村がある。「あの村々は、新しく作られたトルコ人の村です。政府は私たちの村を監視するように、トルコ人の村にお金と銃を渡しています」
Hさんの村では、かつてPKK(クルディスタン労働者党)のゲリラになった人がいたり、ゲリラたちに食料を提供したことがあったりしたため、村人たちはトルコの警察や治安部隊にひどい目に遭わされた。大人の男たちは逮捕されて、何日も村へ戻ってこなかった。
「だから今でも、こんなふうにクルド人の村は監視されているんです。来て、見てもらわないと、本当のことは分からないと思いますよ」
 トルコ人の入植が進んだ地域では、このようにトルコ人の村がクルド人の村を監視するということがあるというのだが、クルド人の村ばかりの地域では、トルコ政府は同じクルド人に恩恵を与えて密告者にし、クルド人同士を分断し、対立させるという政策をとっている。このような目に見えにくい抑圧の状況は、他者にとって、クルド人の苦痛を分かり難いものとさせているのである。

監視と密告


車を走らせていると羊の群れとぶつかり、わたしたちは車を止めて、羊飼いと羊たちが道路を通過し終わるのをのんびりと待っていた。そのとき、どこからともなく小さくトルコの国旗が描かれた車が近づいてきた。青い目をしたトルコ人の男性が、こちらをじっと見ながら近くに車を止め、車から降りると、わたしたちのほうに歩いてきた。「大丈夫、ただの村の人だから…」小さな声でそう言うと、Hさんはその男性と握手をして少し話をした。しばらくすると羊の群れが通り過ぎ、その男性は先に去っていった。「知らない人。トルコ人の村の人みたい……。さあ、もっと見せたい場所があるから行きましょう」
 その後、Hさんはたくさんの美しい場所へと連れていってくれた。「こんなにきれいなところに住んでいたのに、なぜここから去らなくちゃいけなかったのかと思うでしょう。わたしもここにずっといたかった。でもいられなかったんです。もう、息が吸えなかったんです…」
 埼玉県川口市に住んでいたHさんは、毎週のように秩父を訪れていたという。「なんか、自然がいっぱいあって、大好きだったんですよね」やさしい笑顔を見せて、Hさんが言う。「日本にいることもできなかった。あの村にも帰れない。でも、わたしはいつか、ここでフェスティバルが開けたらいいな、と思っています。クルド人の状況がよくなるように、絶対に頑張るしかありません。いくら殴られたって、わたしは平気です」
 日本の入管はHさんの状況を理解しようとはせず、在留も認めず、トルコへと強制的に退去させた。数日後、Hさんから電話がかかってきた。「ジャンダルマ(トルコ治安部隊)が、村でわたしを探しているらしい」 …村の近くで出会ったトルコ人による密告だろうか。背筋が凍りつく。「いや、日本にいる誰かが、わたしが帰国したことをトルコ政府に密告したんだと思います」
 彼らの置かれた状況は、日本人には理解し難いものかも知れない。本当に、この場所に来てみないと分からない抑圧が、確実にある。あの頃のような暴力的な形ではなかったとしても、根底に流れているメンタルは、1990年代とまったく変わっていないのだ、ということを強く予感させる旅の始まりであった。
 わたしは今、日本に帰国してからも、Hさんの身を案じて、たびたび連絡を取り合っている。「どうか今日も電話に出てください」と祈りながら。

( 写真/文 中島由佳利 )